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甘く痺れるそれは、麻酔のようで。
胸にくる想いは、言葉にできないものだった。 +++ どうして『物語』はこうも心に響くのだろう。 静寂の中、静かに本を閉じる。 私は誰もいない本棚の間。密やかに息をついた。 ―――風の音。校庭から聞こえる笑い声。木々の囁き。鳥の歌声。 彼らは知らない。 自分たちが奏でる音たちを。 それを聴く、私の存在を。 空気が渦巻く。 白いカーテンが気持ちよさそうに揺れた。 この時間はいつもこうだ。 誰もここには足を踏み入れない。 私だけの空間。 高級感あふれる真っ赤なカーペットの上。 ローファーを脱いで、靴下であがる。 ここではそれが常識だった。 古い洋館を思わせる図書館は、本の匂いで充満している。 古本屋の匂い。 骨董屋の雰囲気。 私はそれが一等好きだった。 +++ 今日は朝から市役所やら郵便局やら眼鏡屋めぐりやら…。 苦手な電話をして。 ごたごたするものを、少しずつ片付けていく。 買おうか迷った本も、結局買ってしまって。 それを無駄使いというのか、少し戸惑う。 …あの人の、一片を垣間見る瞬間が、未だに慣れない。 『あの人』という呼び方は些か適切ではないが。 …どうなのだろう。 彼女は、そう呼ばれたら、悲しむのかな。 息をするたびに、この家にいられる時間が減っていくと思うと、本当に焦る。 いつ、どうやってこの家から出て行けば良いのか。 どうすれば1人で生きていかれるのか。 考えても、考えても、答えはなくて。 ただ、息が詰まる。 +++ それに隠された意図に気がついたとき。 人は何を思うのだろう。 『物語』を反芻して、心に手を伸ばす。 ―――彼は言った。 「飾らない君が好きだ」と。 ―――彼女は言った。 「飾られている貴方が好きだ」と。 彼らの間に介入する人々は、総じて愚かだ。 確立された空間の中。荒立てることもなかろうに。 …私は、『彼』のような存在も『彼女』のような存在も持ち合わせていない。 だから、想像することしかできないけれど。 きっと『彼ら』は幸せだったのだ。 侵入者のない空間というのは何とも心地が良い。 壊されぬもの。崩れぬもの。なくならないもの。 変わらぬという安心感がある。 変えられぬという危うさがある。 ここでしか味わえぬ高揚感。 ―――私は、それだけで良かったのだ。 +++ 眩しい。 白い光が瞼を射した。 暖かな光が降り注ぐ正午。 まどろみの中、飛沫のように消える唄を聴いた。 誰かが紡ぐ繊細な音。 硝子細工のように透明で。 飴細工のように美しい。 一瞬で溶ける角砂糖のようであった。 ときにそれは優しく麗しく。 蕩けるチョコレートのよう。 ―――あまい。 その、音は。 誰かを宥めるように、穏やかで。 静寂を誘うような密やかさを含む。 ―――これ、は。 この音は、何だろう。 重い瞼は覚醒を拒み。光を避ける。 身体に沁み入る暖かさだけが私を包み。 耳を通り抜けるそれは、より甘さを増した。 『音が甘い』だなんて、初めて思った。 甘い音。甘やかすような音ではなく。 ただ、ただ。穏やかで優しい。 脳髄を駆け巡るように、全身へ。 五臓六腑に行き渡る甘いしるべ。 不意に混ざる、甘い、痺れ。 私は、純粋に興味がわいた。 『それ』は何? +++ 浮上する意識。 浮遊する感覚。 まどろみのなかの現実で。 重い瞼は瞳に映す。 「 」 呟きは音に混じり、言葉となる前に雑音へ。 ピンッと張られた糸はあっけなく緩み。 『それ』は、私を引き寄せる。 ダメだ。そっちへ行っては。 だめだ。だめだ。だめだ。 頭の中で言葉が渦巻く。 『それ』は。 酔ってしまうほどに。 噎せ返るような『甘さ』を含んで。 『おいで』と、手招きする。 『いい子だから。ここまでおいで。この手をお取り。 アレが欲しいのだろう?手に入れたいのだろう?』 いらない。何もいらない。 入ってこないで。壊さないで。 『おいで。ここまでおいで。 その脚で。その腕で。 ―――ワラワの許まで』 いやだ。いやだ。いやだ。 行きたくない。 イキタクナイ。 『望むがまま。在るがまま。 縋って。啼いて。 この手をお掴み』 必死に抱えた本。 それだけが道筋のように思えて。 私は金魚のように口を開閉させた。 『何を躊躇う。何を嫌がる』 『それ』は。 ニィッと背筋の凍るような笑みを浮かべて。 『ソレ、は。ワラワが持っている』 ぐにゃりと空間が歪んだ。 「おまえは、私に。愚かになれ。と言うのか…」 『物語』が紡がれる。 一言ずつ。一文字ずつ。 着実に。 紐解くように『ソレ』は消えて。 耳に轟く甘い音。 愛するものを詠うように。 甘く。甘く。どこまでも。 『それ』は私から『物語』を奪っていった。 ―――序:誘いの奏 +++ …普通に日記を書くつもりがいつの間にか違うものになってしまった(爆) PR COMMENT COMMENT FORM
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